地殻変動が起きているメディア環境を観察し、そこで流通するコンテンツを批評
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11:00:21
 日本新聞協会が2013年全国メディア接触・評価調査の結果を発表した。朝日新聞毎日新聞も大々的に「新聞を読んでいる人は83.6%」と報じている(ちなみに同調査結果によるとインターネットを利用している人は66.8%)。日本新聞協会は全国の各新聞社が会員として名を連ねる組織だから、この結果はさぞ嬉しいだろう。全く「新聞離れ」じゃないと思えてくる。全国7,000人のうち有効回答が3,801名(54.3%)であれば相当な規模だし、社会調査の回答率としても良いと思う。しかし、結果概要を見ても、一体どういう人が実際に調査に参加したのか、よくわからない。層化2段無作為抽出で選ばれた7,000人は15歳以上79歳以下の男女の実際の人口構成を反映しているとは思うのだが、その中で実際回答した人たちの年齢構成や男女比が明らかにされていない。
 そのため、「新聞を読んでいる人は83.6%」と言われても、どういった母集団を想定しているのかわからず、どう捉えるべきかよくわからない。新聞購読者が83.6%と言われても、回答者の多くが高齢者であれば「まあ、そんなもんかな」と思うし、逆に相当数の若者も回答していて、日本の成人の世代構成を割と的確に反映しているならば「それは多いな」と思う。今回の調査に関しては、あくまで私見だが、恐らく前者だと思われる。調査方法は「訪問留め置き法」で、調査票に記入してもらい、後日回収するやり方である。当然、比較的時間に余裕があり、在宅率が高い人の回答率が高くなると予想され、この方法のみを採用している段階で、回答者構成にバイアスがかかるのは避けられなさそうである。
 また、ある設問の結果、「新聞を読んでいる3,177 人に、継続して読み始めた時期を尋ねたところ、44.4%の人が、社会に出る前から新聞に親しんでいることが分かった」とある。毎年、複数の大学の講義で学生に新聞を読んでいるか尋ねてきたが、近年は44%からは程遠い。自分が大学生だった20数年前も、恐らく新聞に親しんでいる学生は(近年よりは多いにせよ)44%に達していたとは思えない。ただ、時代をもっと遡れば、若者が新聞に親しんでいた時代もあったのかもしれないわけで、そういった時代に社会人になった人たちが回答者の多くを占める調査なのだろうと思う。
 また、別の設問では、各メディアの印象・評価を聞いていて、ブログやコミュニティーサイト、SNSに対しては、42.4%が「イメージがわかない・評価できない」と答えている。これも今日の若者層の態度とは程遠い。やはりこの調査に若者層の回答があまり反映されていないことが伺える。
 ただ、ヘッドラインなどで表立って言ってはいないものの、調査概要を見ると、「インターネット調査では把握しにくいシニア層の動向を探るため」などと書いてある。結局、この調査は高齢者たちの新聞接触や評価のためのものということなのか。それならば結構だが、しかし、日本の15歳以上の一般的な傾向を報じるようなミスリードはすべきではないだろう。
 邪念かもしれないが、この調査結果からは、あえて回答者の年齢構成をはぐらかしているような印象を受けるのである。なぜだろうか。「新聞離れって言われてるけど、新聞はこんなに多くの人に読まれてるんですよ」と広くアピールするためか。調査結果は新聞各紙に掲載されただろうから、熱心な新聞読者層である高齢者の多くは、実感を伴う結果を違和感なく受け入れるのかもしれない。一方、この調査結果をネットで知る若年層はどうだろうか。自分たちのリアリティを反映していない結果を堂々と伝える姿に、ますます新聞離れが加速するかもしれない。
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09:23:31
 先週末の毎日新聞の記事を読み、残念かつ複雑な気分になった。「堺市長選完敗 あかんわ橋下さん 人気支えた女性たち離反 ぐらつく地方議員」と題された記事で、大阪のおばちゃんたちの間で橋下市長の人気に陰りが出ていることを報告していた。残念かつ複雑に思ったのは、橋下人気に衰えが出ていることではなく、記事の中で1人のおばちゃんを紹介した以下の部分である。


「従軍慰安婦発言、世界中から批判されたんやろ? 勉強もせずに余計なこと言わんといてほしい。恥さらしや。本当なら池上(彰)さんみたいな、ちゃーんとした人に市長になってほしいわあ」
JR大阪駅に近い梅田の繁華街。友人の女性と買い物に来たという66歳の女性は一気にまくし立て、記者に「ほ  な頑張ってな」とあめ玉を2個握らせて歩き去った。


 前半のコメントは、それが多数派かどうかはさておき、そういう意見の人はいるだろうと特に違和感なく受け止めた。問題は後半部分、そのコメントの主であるおばちゃんに関する描写である。大阪弁をまくし立て、別れ際に飴玉をくれるおばちゃん…見事なまでにこれまでマスメディアが紋切型で描いてきた「コテコテな大阪のおばちゃん像」そのものである(ちなみにヒョウ柄の服は着てなかったのだろうか…)。これをもしもテレビで見せられたら「このおばちゃん、ひょっとして番組が仕込んだんじゃないか?」と疑ったかもしれない。
 おばちゃんが一気にまくし立てたり、飴をくれた云々は果たして必要な情報なのだろうか…こう言った描写を面白がったり、感動する読者も中にはいるのだろうか…などなど次々と疑問が頭に浮かんだ。そもそも、なぜ記者はこのおばちゃんの言動を強調したのだろうか。彼女がよほど印象的だったとも考えられるが、恐らく記者や原稿をチェックするデスクにとって、日本全国の読者に「大阪の普通のおばちゃんがこう言ってる」と伝えるうえで、世間一般に流布している「大阪のおばちゃん像」が必要だったことは想像に難くない。仮に、梅田で答えた人の中に物腰柔らかく、標準語で理路整然と橋下批判をした人がいたとして、その人にスポットライトを当てても「大阪の普通のおばちゃん」が庶民代表としてモノを言ってるように読者には解釈されないだろうと思い込んでいるようにも見える。
 このようにマスメディアが特定の層の人を紋切型に描くこと(=ステレオタイプ化)は別に今に始まったことではない。メディアに出てくる大阪の人は大阪弁を話し、明るくて、話が面白くて、せっかちで、阪神タイガーズとたこ焼きを愛さなければならないというのは、僕がテレビ局で働き始めた約20年前からあまり変わっていないような気がする。仮にその頃大阪で歩行者にインタビューして来いと命じられたとして、上記の条件に当てはまらない人ばかりに受け答えさせたら、上司から「こんなんじゃ大阪の人が答えているように見えないだろ。撮り直し!」と一喝されたかもしれない。当たり前だが大阪には色々な人がいる。でも大阪の一般的な声として全国(あるいは大阪以外の場所)に発信する時、そこに登場する人は上記の条件に当てはまるような人が望ましい。お約束通りの紋切型に描いておけば多くの視聴者や読者にとって違和感はないし、わかりやすいだろうと送り手は信じているのである。このようなステレオタイプ化は様々な集団や組織に向けて行われてきた(顕著な例では「オタク」)。
 描かれる側が紋切型イメージを内面化して、例えば、敢えて周囲の期待通りのキャラクターを演じるとかして楽しんでいるのなら別にいいのではという見方もあるかもしれないが、そこには重大な問題が潜んでいる。マスメディアがステレオタイプ化された描写を繰り返す中で、ある特定の層の人や文化に対する偏見が広く定着してしまう可能性がある。例えば大阪以外に住み、大阪人と付き合いがない多くの人にとって、大阪人のイメージの多くはマスメディアが伝える描写によって形成される部分が多いだろう。そして、人々がそう思い込んでいるのだから、わかりやすさを求めるマスメディアは人々が描くイメージ通りに描写することにますます固執する。このようなことが繰り返される中で、特定の層の人々や文化への偏見が生じ、根付いていく。実際に他の都市に比べて、大阪に面白い人やせっかちな人が多いのかどうかはわからないし、ここでは重要ではない。
 メディアによる紋切型の描写が人々に偏見を生みかねないことに対して、なぜ送り手は(皆とは言わないまでも)それほど気を使わないのか。そこには様々な要因があるだろうが、送り手の意識について考えてみたい。アメリカではマスメディアを生業とする人の多くは基本的に大学でジャーナリズムやメディア学を専攻している。そこでメディアの影響や効果をみっちりと叩き込まれるのだが、この記事で述べてきたようなメディア描写によるステレオタイプ化もよく議論されるテーマだ。アメリカのように様々な民族が混じり、宗教観も様々な国では、メディアが人々の間に特定の文化に対する偏見を生みかねないようなステレオタイプな描写をすることは批判の対象となる。報道だけでなく、ドラマや映画だってそうだ。
 翻って日本の場合、特にジャーナリズムやメディアを専門的に学ばずにメディア企業に就職する人は多い。入社して現場で働く中で実践的な問題に対処する力は着くが、若い頃は仕事に忙殺されてメディア倫理などについて考える時間的余裕がない。中堅以降になると、今さら座学でメディアやジャーナリズムを学んでも得るものは少ないと高を括る人も少なくないかもしれない。そのような人たちが作る記事や番組である上に、わかりやすさが視聴者・読者への親切心と植えつけられているのであれば、ステレオタイプ化に対する認識が甘くてもむべなるかなという感じもする。

22:09:19
ブログを始めてみようと思う。

確かブログはイラク戦争の頃に脚光を浴び始めたと記憶している。だとすれば、もう約10年前の話で、今さら感はある。しかも、以前からブログをやってみたかったなどということは全くなく、今朝なんとなく思いつき、1日そのことを考え、今実行に移し始めた次第。

さて、何を発信するのか?大して面白い日常生活を送っているわけではないので、日記みたいなものは書きようがないし、書いたところで面白くなりようがない。自分なりに問題を提起でき、また、持っている知を少しでも世に役立てようとするならば、おのずと仕事と趣味に関連すること、つまりメディアやコンテンツ周りの話になるだろう。

近年、メディアの変動は本当に激しく、フォローしていくのもなかなか大変だなと大学で講義しながらいつも感じている。ある程度の即時性を持って、メディアの動きを整理・分析する場があるといいなあ…ひょっとしたら、そういう思いがブログをはじめたきっかけなのかもしれない。論文はそんな簡単には書けないし、twitterはたった140字。そしてfacebookは僕のような中年にとってはグルメや旅行、家族の近況報告の場と化している。じゃあブログか、みたいな。

でも、ブログって一体どれくらいの頻度で更新するものなのだろうか。あまり自分に厳密なノルマを課すとキツそうなので、仕事など全て終わらせて時間が余ってるようだったら書くことにする。

ではでは、よろしくお願いします。

プロフィール

大場吾郎

Author:大場吾郎
大学教員であり、メディア研究者。専門は映像メディア産業論やコンテンツビジネス。元々は某キー局勤務。
Twitter:@obagoro

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