地殻変動が起きているメディア環境を観察し、そこで流通するコンテンツを批評
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22:55:45
 前回まで日本のテレビ番組の海外流通を阻害する要因として、テレビ局の海外番販へのモチベーションの低さとか権利処理とか日本の番組スタイルの独自性などに焦点を絞って記した。最後の点に関して、海外市場展開を視野に入れた番組作り(例えば、ドラマの話数を増やすとか、異文化でも理解しやすい内容にするとか、番組中の音楽使用を控えるとか…)をすべきと言う意見を耳にすることがあるが、制作側からすれば、我々日本の視聴者が長年にわたって慣れ親しんでいた番組様式を海外市場向けに変えることは容易ではない。場合によっては国内視聴者を失いかねない。
 この点は映像コンテンツの国際流通を考える際、実は非常に重要な点だ。よくハリウッド映画がグローバルな規模で受容される理由として、アメリカ人にしかわからないような要素や特定の文化的背景を持つ人たちが嫌がる要素を排除して、極端に言えば、世界中の最大公約数的観客が楽しめるような内容の作品づくりを意識的に行っているからと言われる。確かに世界各国で驚くべき興行収入を記録する類のアメリカ映画には、そのような普遍的内容を備えたものが多いのは事実だし、日本のアニメ『ポケットモンスター』が世界中で受容されるのも似たような理由からだろう。ここら辺りの話は弊著『グローバル・テレビネットワークとアジア市場』で詳しく論じているので、興味がある方はご一読頂ければと思う。
 ところが、テレビドラマやバラエティ番組の中でそのようなグローバルに受容されるコンテンツは本当に少ない。一般にテレビの娯楽番組は自分たちの文化を反映したものが好まれる傾向があるわけで、そのような個別の文化特性を強調すれば、国際流通は難しくなる可能性がある。恐らくアメリカのテレビ番組だって、少なくとも映画ほどには海外市場を意識して作られているわけではないだろう。また、韓国ドラマは海外市場を見据えて作られているとまことしやかに言われるが、この点も疑わしい。先日話したある関係者は、「日本があまりにも韓国ドラマを欲しがるから、最近は日本に売れそうな作品を作る動きが一部にないわけではないが、主流ではない」と話してくれた。どこの国も番組内容に関しては自国視聴者第一主義で作っていると言って間違いないだろう(国際流通のための制度作りはまた別の話)。
 一方で、先日「TBS、シンガポールのメディアコープ社と番組制作・EC事業の共同調査で合意」という記事を見つけた。実は昨今、こういった番組の国際共同制作の話が増えていて、特にアジア諸国の間では多い。今月初頭に福岡で行われていた「アジアドラマカンファレンス」でも実務者間の提携や協力が話し合われている。一昔前なら日本のテレビ局はまず積極的にはやりたがらなかったはずだ。日本のテレビ局にとってアジア諸国との合作は、少なくとも収益面において大きなプラスになるようには見えなかったのだから。
 しかし、日本のテレビ局やプロダクションがようやく海外市場に目を向け始めた今日では状況がちょっと違ってきている。特に共同制作であれば、作品にうまく日本と相手国のハイブリッド感を出すことで、両国を確実なマーケットとすることができる。コンテンツの運用にしても、映画によく見られるような製作委員会を国際的に組織すれば、様々なビジネス展開が期待できそうだ。
 ただ、実際の共同制作の現場からは様々な問題が聞こえてくる。双方の意見や利害が対立し、ピリピリした雰囲気になることもあるという。また、現実には対等な関係は難しく、どちらがイニシアチブをとるかで揉めることもある。しかも多くの場合、外国側が世界屈指のコンテンツ大国である日本側に求めるのは、制作ノウハウというよりは、脚本や企画といった部分の開発(あと資金も?)である。この点はドラマのリメイク権やバラエティ番組のフォーマット販売がビジネスとして成立している点からもうかがえる。脚本や企画は、一昔前であればパクればOKみたいな風潮もあったのだろうが、昨今ではどの国も著作権意識が高まったり、あるいは国際ビジネスにおける慣習に留意し始めている。外国側にすれば、日本のドラマの脚本やバラエティ番組の企画は国際的に高い評価を受けているから、その部分を正式に使用できるようにしたいわけであるが、その一方で出演者は自国の俳優やタレントを使いたがる。従って、表面上は純自国製コンテンツに見えなくもない。共同制作と言えば聞こえはいいが、実のところは、後で揉めないように契約だけして、脚本や企画など使いたい部分は正式に使わせてもらい、あとは好きに作らせてくれというふうに見えなくもない。
 それでも共同制作やリメイク権販売、フォーマット販売が既存の番組販売よりも収益性が高いならば、日本のテレビ局やプロダクションは乗り出すかもしれない。ただし、日本色が表面に出ないのであれば、コンテンツ視聴を通して日本に興味を持たせ、旅行に来たり、日本語を勉強したり、日本製品を買ったりする日本ファンを増やすという、経済産業省あたりが好きな波及効果も期待できない。また、テレビ番組の国際交易に関してよく唱えられる理想、つまり番組が日本と諸外国の相互理解と友好に貢献するという点も絵に描いた餅になってしまう。
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22:52:34
 今回は日本のテレビ番組、ジャンル的にはドラマとバラエティ番組に見られる独特なスタイルや構成についてまとめてみる。簡潔に言えば、他国のドラマやバラエティ番組とは異なる点が散見され、そのことが海外展開を阻害するとも考えられる。もちろん、それらの点は日本の番組しか見ていないと気付きにくい点だが、それゆえに外国出身者にはよく指摘される点であり、「ここが変だよ、日本のテレビ番組」みたいな企画やれば必ず出てくる点だろう。日本で独自の進化を遂げるも国際競争力を欠いた日本製携帯電話を揶揄して「ガラパゴス化した携帯=ガラケー」と呼ぶことが一般化したが、テレビ番組も同様で、独自の進化を遂げる一方で、他国の番組の標準とはかけ離れた、いわば「ガラ番」と呼ぶにふさわしいものになってきている。
 まずはドラマだが、日本のドラマの話数はワンクール(3か月分、だいたい11~12話)が標準である。面白かろうが、つまらなかろうが、稀に途中打ち切りはあるものの、大体それくらいの量だ。それに比べると外国のドラマは概して話数が多い。拙著『韓国で日本のテレビ番組はどう見られているのか』にも書いたが、話数の多い・少ないに対する視聴者の反応は様々だ。日本のドラマは「終わるのが早すぎる」という声もあれば、「話が凝縮されていて良い」という意見もある。より話数が多い外国のドラマに対しては逆に、「だらだら話を引っ張り過ぎ」という声もある。ただし、視聴者ではなく、ドラマを購入して放送する側にとっては、話数は多い方が絶対にいい。仮に月曜~金曜の5日間で1話ずつ放送したなら、日本のドラマは3週間分もなく、視聴習慣が固定されてくる頃には、もうそのシリーズは終了となってしまう。買う側は概して、他の条件が同じならば、全12話のドラマ2シリーズよりは、全24話のドラマ1シリーズを好む傾向にある。
 日本のドラマの他の特徴は、テレビで人気がある芸能人(必ずしも俳優に非ず)を中心に作られている点であるが、そのために演技経験や演技力が不足したアイドル、タレント、歌手、芸人、元スポーツ選手などが重要な役柄を務める作品も少なくない。しかし、こういったドラマはそのアイドルや芸人を知っているから楽しめるのであり、その人たちを知らないと「なぜこんな下手な人が主役なんだ」と捉えられかねない。例えばアイドルを全面的にフューチャーしたドラマの場合、彼・彼女の知名度が高いであろう一部アジア市場を除き、悲しいくらいに作品の商品力は低くなる。脚本が面白いわけでもなければ、俳優には知名度も実力もないのだから。ちなみにこの真逆にあるのが、アメリカのドラマだと個人的には思う。ストーリーはよく練られているし、ドラマ出演者は著名な映画俳優に比べて馴染みない人が多いが、演技は押しなべて上手い。
 ドラマ以上に海外で苦戦を強いられるのが日本のバラエティ番組である。「バラエティ番組」とは本来、歌あり、コントあり、寸劇ありといった、各種の芸を寄せ集めたような番組を指した。文字通り、varietyであり、あえて言えば『Smap×Smap』が近いような気がする。ただ、アメリカではそういった番組自体が絶滅しつつある。一方、今日の日本でバラエティ番組として捉えられるような、スタジオにタレントや芸人が大勢集まって騒ぐという、お笑い要素が強い番組は、恐らく日本で開発されたもので、日本のテレビ文化の影響を受けた東アジア以外の多くの国では見られないものであり、そのスタイル自体が多くの国の視聴者には違和感がある。
 さらに、日本のバラエティ番組の重要な要素である「笑い」であるが、トークを注意して聴いてみると、他の有名人の話、楽屋オチ、最近の社会現象などがネタになっていることが多い。ところが、それらの題材に関してある程度の知識がないと、笑うどころか、一体何の話かも理解できないのである。果たして日本のバラエティ番組のトークのネタが外国人に受けるだろうか。それじゃなくても、文化が異なれば、笑いの質も異なることは広く信じられている。
 あと、日本のバラエティ番組はスタジオ部分もVTRも相当細かい編集をしたうえで、字幕スーパーとかBGMとか効果音とか足しまくっている。かつて自分が担当していたから言うわけではないが、日本のバラエティ番組の「作りこみ方」は恐らく世界で類を見ないものだと思う。外国で娯楽番組を見ると、もっとボーっとした感じだ。とにかく日本のバラエティ番組は、良く言えば明るく賑やかだが悪く言えばうるさくて、また計算されているものの見ていて疲れる。しかも海外に売るとなると元々番組に入っている日本語のスーパーの上に現地語の字幕を入れたり、あるいは前回書いたようにBGMは使えなかったりするわけで、再び編集したり音処理する必要がある。手間がかかるし、その分のコストもかかる。買う側にとっては購入を躊躇する要因にはなる。(続く)

22:37:07
 Youtubeなど動画サイトにテレビ番組が違法にアップロードされているのは、もはやお馴染みの風景だ。「なぜ日本のテレビ番組はネットで流れないのか」ということが議論されて久しく、その理由としては「正式にネットで流すには権利関係が複雑らしい」ということが盛んに喧伝されてきた。テレビ番組を海外に売るのも同じことだ。放送用の番組を放送以外で利用するためには、それがネット配信であろうが、海外番販であろうが、新たに処理しなければならないことが多いのである。
 それで「著作権」という話になるのだが、実は著作権の処理に関して言うと、結構制度化されている。作家とか脚本家とか音楽著作権などに関しては、それぞれの団体があり、著作権を集中管理している。また、利用申請に対しては応諾義務があるから、よほどのことがない限り、ダメ出しされることはない。使用料も規定通り払うだけである。巷でよく言われるような「著作権処理=煩雑」な感じはしない。
 実のところ、面倒くさいのは著作権ではなく、「著作隣接権」というあまり聞きなれない権利である。これを所有している権利者はいくつかに大別される。1つは出演者などの「実演家」である。勘違いされやすい点だが、実演家は著作権を持っていない。それじゃあんまりだということで、著作隣接権が認められているわけだが、これは上記のように権利者団体が集中管理を行っているわけではない。「昔の作品で、出演者の誰々と連絡がつかないから許可の取りようがない」といった話はここから出てくる。しかも応諾義務があるわけではない。「昔出演した作品を今さら公表してほしくない」という理由で使用申請を拒否されることもある。従って、ここをクリアできるかは、実演家(あるいは彼らの所属事務所)の一存である。
 著作隣接権に関して、もう1つの有力な権利者は、レコードCDなどの「原盤製作者」である。ここのところは一般視聴者には非常に理解しづらい。ただ、注意して番組を見ると、番組内で随分多くの曲が使われているのに気づくはずだ。そして、その多くは生演奏ではなく、CDやレコードなど録音された音源を使用している。この音源を作った人が原盤製作者である。つまり、番組で使われる曲を作った人ではなく、番組で使われる曲が収録されたアルバムを製作した人や団体(多くの場合はレコード会社や音楽出版社)である。通常の番組放送における原盤使用は、原盤権の権利者団体と包括契約されているが、番組を海外に売る際には、番組内使用楽曲1曲1曲の原盤製作者を探し、許可してもらわなければならない。これが面倒くさい。
 でも、レコード会社なんてそれほど多くないのだから、やってできないことはなさそうな感じもする。確かに「邦楽」に関してはその通りかもしれない。厄介なのは「洋楽」であるが、その洋楽の音源が日本の番組内では実によく使われている。映画のテーマソングなんか本当に多様されている。これらの原盤権は海外の会社が持っているような場合が多く、そことの交渉となる。信じられないくらい高額な使用料を要求されることもあるという。
 僕は「日本のテレビ番組の海外販売を妨げる権利処理とは、具体的に何か」という質問をこれまで多くのテレビ局の海外番販担当者にしてきた。その時に本当に多く聞かれる答えが、著作権でもなく、出演者の権利でもなく、この洋楽の原盤権だった。ちょっと信じにくい話ではないだろうか(僕は最初聞いた時、椅子からずり落ちそうになった)。番組内で使われているBGMのおかげで、その番組を海外に売れないのである。率直に言って、番組のBGMは脚本や出演者と比べた場合、番組における重要度ははるかに低いはずだ。そんなもののために海外販売が見送られることが多いとは…。
 ただし、ここまで書いてきた権利処理であるが、使用料を支払うことでクリアになるケースも多い。しかし、前回記したように、権利処理の経済的コストを販売価格に上乗せすれば、値段は跳ね上がり、買い手がいなくなる。逆に薄利で売るには、権利処理には労力がかかり過ぎる。結果的にテレビ局では、「そこまでして海外販売しなくていいんじゃない?」という意見が大勢を占めるようになる。海外販売が儲かるならテレビ局は積極的に取り組むだろうし、逆にやらないのは、儲かりそうもないからだ。ちなみに著作隣接権は、アメリカにはそもそも存在せず、韓国でも実演家には与えられないことが一般的だ。(続く)

22:00:57
 僕が先日上梓した『韓国で日本のテレビ番組はどう見られているのか』に関して色々とありがたい感想を頂いている。この本の中で、韓国で日本のテレビ番組が放送されない諸要因を考察しているが、意外と読者の方の反応が大きいのは、日本のテレビ番組の海外販売に関する章(8章「日本のテレビ番組の国際競争力と今後の展開」)だ。わかりやすく言うと、日本のテレビ番組は海外販売に係る費用が高く、価格競争力を持たない点や、完全に日本国内市場向けであり、海外市場には向いていない点、つまりガラパゴス化しているという点である。これらは何も韓国に対してだけでなく、その他の国に販売する際にもマイナス要因となる。多少の自負心を込めて言うならば、実はこのことをきちんと解説している書籍が日本にはほとんどなく、そこで「ないならば自分でやってやろう」と考えた次第である。
 そもそも日本の国内テレビ放送市場は世界第2位の規模を誇り、内需だけで十分に食べていけるという考え方がこれまでずっと一般的だった。つまり、テレビ局は海外に目を向ける必要がなかったのである。そして、今でもそんな風に考えている人は業界に少なくないと思われる。業種によって国際性みたいなのを測ると、恐らく放送業界はかなり低いはずだ。
 一方で1990年代半ばから、台湾や香港、シンガポールなどで日本のドラマやバラエティ番組が人気となった。これにしても、別に日本のテレビ局が必死に売り込んだわけではなくて、むしろ大した努力しないでも先方で人気が高まり、買いが入ったという、商売をする立場からすれば夢のような話だったのである。おまけにその当時は現在ほど権利処理に厳密ではなかったため、今より海外に番組を売りやすかった。
 ところが、そんな中で権利者(しかもテレビ番組の場合、膨大な数に及ぶ)が厳密な権利処理を主張するようになってきた。それをきちんと処理すれば時間もカネもかかるが、その割に利益は少ないため、テレビ局が海外番組販売に消極的なるのは当然である。逆に十分な利益を確保しようとすれば、販売価格は高騰し、買う側が「日本の番組は欲しいが、そんなに高いカネは出せない」となる。結果として、アジア各国から日本のテレビ番組は潮が引くようにスーッと消えた。そして、この状態が基本的には現在も続いている。世界各国で多チャンネル化が進み、どこでもコンテンツが求められているのに、日本のテレビ番組は主要コンテンツになっていない(アニメは除く)。
 「テレビ番組は日本の大衆文化を伝える役割を担うのだから、海外に出ていかなければならない」という主張は確かに理想的だが、「テレビ番組の海外販売は基本的にテレビ局が採算性に基づいて行う」という現実を全く見ていない。文化事業の一環として海外番組販売を行うテレビ局など、比較的体力があった頃ならともかく、各局とも経営が厳しい今日では存在しないだろう。そして、テレビ局が番組を売れないのならば、少なくとも正規の番組の国際交易は起こりえない。テレビ局は儲かればやるし、儲からないならやらないわけで、海外番販に積極的でないのは、儲からないからである。しかも、かつてと違い、儲からない割に面倒くさい。
 実は僕はかつてアメリカの大学院で映像コンテンツのマルチユースを専門的に学んでいた。アメリカのテレビ番組は、日本以上に巨大なアメリカ国内市場で十分な利益を稼ぐことができるが、海外市場にも盛んに輸出されている。それはなぜかというと、海外に売る際の権利処理が簡素化されており、多くの場合、制作プロダクションが唯一のコンテンツホルダーとして自由に番組を運用できるからである。また、日本やアメリカと違い、韓国の場合は国内市場が小さいため、どうしても海外市場に出さなければならないが、それにしても多くの場合、テレビ局の自由裁量で行える部分は大きい。アメリカにせよ韓国にせよ、番組の流通を前提とした制度作りがなされているのである。翻って、日本の状況を一見すると、確かに権利処理の複雑さは否めない。(続く)

22:42:25
 『テレビに挑戦した男 牛山純一』というドキュメンタリー映画を見た。牛山さんは日本のテレビドキュメンタリーの草分けともいえる人物で、僕にとってはかつて勤務していた会社の大大先輩ということになる。しかも一時期僕はドキュメント班に所属していて、その時の上司はかつて牛山さんの下で『すばらしき世界旅行』を作っていた人だったこともあり、牛山さんの伝説的な話をよく聞いた。また、時間があると映像ライブラリーに行って牛山さんプロデュースの名作ドキュメンタリーを見たりもしていた。大島渚監督の『忘れられた皇軍』、市岡康子監督の『多知さん一家』…もちろん『ヴェトナム海兵大隊戦記』も見た。今思えば、本当に恵まれた環境にいた。
 今回のドキュメンタリー映画で印象に残っているのは、牛山さんが部下のディレクターたちに言っていたという「署名入りの作品を作れ」という言葉だ。ディレクターが自分の感覚と才能を信じて番組を作る。成功すれば自分の手柄だが、失敗すれば自分のせい…テレビ番組は本来そんな風に作られていたはずだ。それはドキュメンタリーやドラマだけではなく、バラエティ番組もそうで、ディレクターは自分の担当回は自分1人で全部撮ることが当たり前だったと聞いた。特殊能力を持っている人間にしかできない芸当であるが、このようにして作られた番組には映像表現作家としてのディレクターの意志が反映される。番組は出演者のものではなく、ディレクターのものだった。
 翻って今日のテレビ番組の最後に流れるスタッフロールを見ていると、ディレクターの多さに驚く。ゴールデンタイムならば、ディレクターがいて、演出がいて、総合演出までいる番組もある。本来、特殊能力が必須であるはずのディレクターだが、別に免許や資格などが必要なわけではないので、誰でも肩書として名乗ることはできる。もちろん昔と比べれば、今日の番組制作はより複雑だろうし、同時に複数の対象を追うこともあるので、ディレクターが1人で番組を作ることが物理的に難しいことは理解できる。一方で、大勢で作った番組に、1人のディレクターの感性や想いや志やこだわりが反映されることは稀であり、結果的に没個性的な番組が量産されることになる。良い悪いではなく、今日のテレビ番組の多くはそんなものだ。
 牛山さんのドキュメンタリーでも、そして以前に見た元TBSの村木良彦さんや萩元晴彦さんのドキュメンタリー(『あの時だったかもしれない~テレビにとって「私」とは何か』)でも感じたのは、テレビ創世記に一体それがどんなメディアなのかわからない中で、制作者たちは手探りでテレビ的表現を模索したという点である。今日よくある「テレビ的にはこんな感じでOKでしょ」が全くない時代、テレビで何ができるのかを真剣に考えるのは、大変だったろうが、非常に創造的で刺激的だったのではないか。翻って今日のテレビ界には「出尽くした感」が漂っているわけだが、実は新しく台頭してきたメディアとの連携でテレビが試すべきことは多い。もし今日、牛山さんがご存命ならば、面白がって何か新しいことに取り組まれるような気がする。少なくとも、新しいメディアの台頭を「テレビにとっての脅威」ではなく、「テレビにとっての機会」と捉えるのではないだろうか。

プロフィール

大場吾郎

Author:大場吾郎
大学教員であり、メディア研究者。専門は映像メディア産業論やコンテンツビジネス。元々は某キー局勤務。
Twitter:@obagoro

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