地殻変動が起きているメディア環境を観察し、そこで流通するコンテンツを批評
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09:23:31
 先週末の毎日新聞の記事を読み、残念かつ複雑な気分になった。「堺市長選完敗 あかんわ橋下さん 人気支えた女性たち離反 ぐらつく地方議員」と題された記事で、大阪のおばちゃんたちの間で橋下市長の人気に陰りが出ていることを報告していた。残念かつ複雑に思ったのは、橋下人気に衰えが出ていることではなく、記事の中で1人のおばちゃんを紹介した以下の部分である。


「従軍慰安婦発言、世界中から批判されたんやろ? 勉強もせずに余計なこと言わんといてほしい。恥さらしや。本当なら池上(彰)さんみたいな、ちゃーんとした人に市長になってほしいわあ」
JR大阪駅に近い梅田の繁華街。友人の女性と買い物に来たという66歳の女性は一気にまくし立て、記者に「ほ  な頑張ってな」とあめ玉を2個握らせて歩き去った。


 前半のコメントは、それが多数派かどうかはさておき、そういう意見の人はいるだろうと特に違和感なく受け止めた。問題は後半部分、そのコメントの主であるおばちゃんに関する描写である。大阪弁をまくし立て、別れ際に飴玉をくれるおばちゃん…見事なまでにこれまでマスメディアが紋切型で描いてきた「コテコテな大阪のおばちゃん像」そのものである(ちなみにヒョウ柄の服は着てなかったのだろうか…)。これをもしもテレビで見せられたら「このおばちゃん、ひょっとして番組が仕込んだんじゃないか?」と疑ったかもしれない。
 おばちゃんが一気にまくし立てたり、飴をくれた云々は果たして必要な情報なのだろうか…こう言った描写を面白がったり、感動する読者も中にはいるのだろうか…などなど次々と疑問が頭に浮かんだ。そもそも、なぜ記者はこのおばちゃんの言動を強調したのだろうか。彼女がよほど印象的だったとも考えられるが、恐らく記者や原稿をチェックするデスクにとって、日本全国の読者に「大阪の普通のおばちゃんがこう言ってる」と伝えるうえで、世間一般に流布している「大阪のおばちゃん像」が必要だったことは想像に難くない。仮に、梅田で答えた人の中に物腰柔らかく、標準語で理路整然と橋下批判をした人がいたとして、その人にスポットライトを当てても「大阪の普通のおばちゃん」が庶民代表としてモノを言ってるように読者には解釈されないだろうと思い込んでいるようにも見える。
 このようにマスメディアが特定の層の人を紋切型に描くこと(=ステレオタイプ化)は別に今に始まったことではない。メディアに出てくる大阪の人は大阪弁を話し、明るくて、話が面白くて、せっかちで、阪神タイガーズとたこ焼きを愛さなければならないというのは、僕がテレビ局で働き始めた約20年前からあまり変わっていないような気がする。仮にその頃大阪で歩行者にインタビューして来いと命じられたとして、上記の条件に当てはまらない人ばかりに受け答えさせたら、上司から「こんなんじゃ大阪の人が答えているように見えないだろ。撮り直し!」と一喝されたかもしれない。当たり前だが大阪には色々な人がいる。でも大阪の一般的な声として全国(あるいは大阪以外の場所)に発信する時、そこに登場する人は上記の条件に当てはまるような人が望ましい。お約束通りの紋切型に描いておけば多くの視聴者や読者にとって違和感はないし、わかりやすいだろうと送り手は信じているのである。このようなステレオタイプ化は様々な集団や組織に向けて行われてきた(顕著な例では「オタク」)。
 描かれる側が紋切型イメージを内面化して、例えば、敢えて周囲の期待通りのキャラクターを演じるとかして楽しんでいるのなら別にいいのではという見方もあるかもしれないが、そこには重大な問題が潜んでいる。マスメディアがステレオタイプ化された描写を繰り返す中で、ある特定の層の人や文化に対する偏見が広く定着してしまう可能性がある。例えば大阪以外に住み、大阪人と付き合いがない多くの人にとって、大阪人のイメージの多くはマスメディアが伝える描写によって形成される部分が多いだろう。そして、人々がそう思い込んでいるのだから、わかりやすさを求めるマスメディアは人々が描くイメージ通りに描写することにますます固執する。このようなことが繰り返される中で、特定の層の人々や文化への偏見が生じ、根付いていく。実際に他の都市に比べて、大阪に面白い人やせっかちな人が多いのかどうかはわからないし、ここでは重要ではない。
 メディアによる紋切型の描写が人々に偏見を生みかねないことに対して、なぜ送り手は(皆とは言わないまでも)それほど気を使わないのか。そこには様々な要因があるだろうが、送り手の意識について考えてみたい。アメリカではマスメディアを生業とする人の多くは基本的に大学でジャーナリズムやメディア学を専攻している。そこでメディアの影響や効果をみっちりと叩き込まれるのだが、この記事で述べてきたようなメディア描写によるステレオタイプ化もよく議論されるテーマだ。アメリカのように様々な民族が混じり、宗教観も様々な国では、メディアが人々の間に特定の文化に対する偏見を生みかねないようなステレオタイプな描写をすることは批判の対象となる。報道だけでなく、ドラマや映画だってそうだ。
 翻って日本の場合、特にジャーナリズムやメディアを専門的に学ばずにメディア企業に就職する人は多い。入社して現場で働く中で実践的な問題に対処する力は着くが、若い頃は仕事に忙殺されてメディア倫理などについて考える時間的余裕がない。中堅以降になると、今さら座学でメディアやジャーナリズムを学んでも得るものは少ないと高を括る人も少なくないかもしれない。そのような人たちが作る記事や番組である上に、わかりやすさが視聴者・読者への親切心と植えつけられているのであれば、ステレオタイプ化に対する認識が甘くてもむべなるかなという感じもする。
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プロフィール

Author:大場吾郎
大学教員であり、メディア研究者。専門は映像メディア産業論やコンテンツビジネス。元々は某キー局勤務。
Twitter:@obagoro

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