地殻変動が起きているメディア環境を観察し、そこで流通するコンテンツを批評
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10:41:20
 細胞生物学者・小保方晴子さんによるSTAP細胞作製成功に関する大手メディアの報道が物議を読んでいる。全国紙が、小保方さんの研究業績とは関係のなさそうな彼女のエピソード、つまり研究室で割烹着を着ていたり、壁にムーミンが貼られてあったりといった点を強調したことは、めいろま氏のブログ記事「一晩中泣き明かした30歳若手女性研究者と書く我が国にはゴシップ新聞しかないらしい」にまとめられている。1万回以上のtweetを記録していることからも、関心の高さ(そして恐らくブログ記事への賛同の多さ)が窺える。
 発見そのものにはあまり関係ない小保方さんのプロフィールが強調されている、さらには、送り手は女性を蔑視している、というめいろま氏の主張に対して、朝日新聞の古田大輔記者が個人的見解を述べている。実際には朝日新聞も、そして恐らく他の新聞も、小保方さんの人物像ばかりを強調していたわけではなく、むしろきちんと発見内容について報道していたようだ。だとすれば、今回の問題は「重要な研究成果(ニュースの幹の部分)を伝えなかったこと」ではなく、「主人公のプロフィール(ニュースの枝葉の部分)に焦点を当てすぎたかもしれないこと」になる。ニュースの主と従のバランスの問題とも言えそうだ。
 一方、テレビのニュース番組はどうだったのだろう。1月30日夜、いつものようにアメリカで半日遅れでNHKの夜7時のニュースを見ていた(その日の朝に日本と同時に放送されたものをDVRに録画・再生して夜に視聴)。スタジオの武田キャスターの第一声は「日本の理系女子、リケジョが世界をアッと驚かせました」。そして「リケジョ」という大きなテロップ。続いてVTRの映像は研究室での様子を映し出し、ナレーションは「実験では白衣ではなく割烹着」、「研究室はお気に入りのムーミンで一杯」。続いてVTRで紹介された本人のコメントで「研究をしていない時はペットの亀のお世話をしたり、お買い物に行ったり、温泉に入ったり、本を読んでいます。普通です」と、小保方さんの人物像紹介が続く。あくまで「どこにでもいる30歳の女性」が強調されつつ、そこに女子力(最近のNHKがいかにも好みそうなターム)の高さを表すようなエピソードを絡めてくる。
 その後、ナレーションで「自分を普通の女性と語る小保方さん。これまでの生物学の常識を覆す画期的な成果を挙げたのです」。番組開始からここまで約2分、VTRが始まってから約1分が過ぎている。STAP細胞の説明、研究者の驚きと称賛の声、海外ニュース報道の反応などが続き、ようやく彼女の偉業が伝わったが、6分過ぎたあたりで大学時代の話になり、ナレーションは「ラクロス部に所属し、オシャレにも気を使う活発な学生だった」と、また女子力がアップしそうなエピソードを絡めてきた。その後は、再生医療を志したきっかけ、STAP細胞の発想、研究での挫折と成功、そして今後の目標でVTRは〆られた。総尺で12分ほどである。全体的に見れば、難解なSTAP細胞の説明もきちんとされているし、国内外の研究者の声もよく拾っている。実はなかなかよくできたVTRなのだが、いわゆる「つかみ」に使われた彼女のエピソードの印象は強い。もし、そういったエピソードが最後に余談として紹介されたのであれば、印象は全く異なったものになっただろう。
 テレビ放送の場合、STAP細胞の説明や今回の発見を再生医療にどう活かせるかといった一般には馴染みの薄い事柄をわかりやすく説明しようにも時間が限られており、また、視聴者にとっては、新聞のように時間をかけて(場合によっては反復して)ニュースを読み解くことが難しく、さらに送り手が決めた順序で時間軸に沿って見ていくしかない。もちろん、そういったテレビメディアの特性を考慮した上で視聴者にニュースを伝えるのがプロの送り手だし、少なくとも上記のNHKニュースを見る限り、重要な部分を蔑にしているようにも見えなかった。しかし、このニュースに触れた視聴者にSTAP細胞作製成功に関して尋ねたら、結構多くの人が「ああ、割烹着の人が発見した…」とか「なんかリケジョが凄いことしたんだよね」とか、発見と直接は関係のない回答をしたかもしれない。これではニュースの本質は伝わっていないに等しい。
 先述のめいろま氏はブログで、海外諸国のニュースは小保方さんの発見はどういったもので、なぜ画期的なのかという点に焦点を絞っていて、発見と関係がない本人のプロフィールは伝えていないと述べる。実際にアメリカ3大ネットワークのニュースのサイトを確認すると、研究の成果や展望だけを伝えており、小保方さんの顔写真も載せていない。もちろん仮に割烹着やムーミンを挙げられても、多くのアメリカの視聴者にとって、そこから小保方さんの人物像を連想することは難しいわけだが、それ以前に、ニュースでは当事者に関する情報は必要最低限にとどめ(極端な場合、名前と所属だけ)、出来事と関連するものだけを伝えればいいという認識を送り手・受け手双方が共有しているようにも思える(ちなみに、ニュース以外の番組、例えばトークショーでは話題の人物のエピソードがトークのネタになったりする)。
 一方、日本にはアメリカとは異なるニューススタイルが存在する。めいろま氏は日本のニュースの特異性を挙げているけど、それはジャーナリズムの意義みたいなことだけで優劣を付けられるものではないというのも事実だろうと思う。日本の視聴者には現在のニューススタイルがウケるのだろうし、少なくとも、送り手はそのように信じているという点は留意する必要があると思う。例えば、一局だけ小保方さんのプロフィールには一切触れず、海外のニュースのように研究成果だけ伝えたとして、果たして視聴率が取れるだろうかという疑問が残るし、各局のニュース担当者がそのようなリスクの高い選択をするとは思えない。本来ならば視聴率競争と無縁であって然るべきNHKが小保方さんのエピソードを前面に出していることが、その証左だろう。前述の朝日新聞の古田記者も「(読者に)圧倒的に読まれ、シェアされるのは人物像の記事」と認めている。
 今回のSTAP細胞作製では、30歳女性という主人公がいて、「リケジョ」、「割烹着」、「女子力」みたいなキーワードがうまくはまった。逆に、人物像が見えないと、視聴者からは反感・戸惑いの声も起きそうである。「主体となる人がどんな人がわからないと、ニュースを見られない」、「親しみやすいエピソードがあれば、一層ニュースに入り込める」という視聴者は案外多いのかもしれない(1年前に起きたアルジェリアの人質拘束事件での実名報道でも同じように感じた)。外国の報道はそうではない、といったところで、日本の視聴者が慣れているのは日本のニューススタイルであり、日本のテレビメディアはそれを視聴者に涵養してきたと言ってもいい。
 つまり、人物像を彷彿とさせるエピソードを交えることが、日本のニュースである種の手法として定着しているのは、視聴者が求めるから、という考えに至る。今回の場合であれば、送り手の論理は「難解な研究の話ばかりだと、視聴者はついてこないかもしれない。だからニュースの主人公である研究者の親しみやすい一面のようなエピソードを絡めないと」ということだろう。恐らく番組制作者は、ニュースを伝えるうえで、そういった情報が枝葉であることは重々承知だ。しかし、視聴者を掴むには、そういった要素があった方が良いという考え方が、送り手に浸透しているとも考えられる。
 こういう話を突き詰めていくと、どうしても「視聴者のレベルが低いから、放送内容もそれに合せるように、わかりやすい内容を前面に出す」のか、「放送がわかりやすい内容ばかり優先するから、視聴者はそれに慣れてしまい、難解なものをますます敬遠するようになる」のかという、「ニワトリが先か卵が先か」みたいな話になってしまう。ニュースに限らず、バラエティ番組などでもこういった「テレビと視聴者の共犯関係」はよく指摘される。
 視聴者が見たがるものよりも、視聴者が知るべきものを優先するニュースであるべきというのはその通りなのだが、実際問題として、そういう指摘をするような人はもうそれほどテレビニュースに期待していないのではないのかという気もしないでもない。今回の小保方さんのSTAP細胞作製成功というニュースに苦情を呈する人だって、実は「もうあんまりテレビ見なくなった…」っていう人が多くて、逆にテレビのヘビーウォッチャーは、ああいった伝え方に慣れていたり、好きだったりして、違和感なくニュースを見ていたのかもしれない。でも、そうすると、ますます人々のテレビに対する態度の二極化は決定的になり、テレビは現存するテレビファンのニーズだけを満たせばいいことになり、変革は起きにくいということになるのか。

11:02:30
 アメリカの家電量販店へ行くと最近の主力商品はスマートテレビである。スマートテレビが注目される理由は簡単で、映像コンテンツサービスの総合端末として利便性が高いである。スイッチを入れれば、ホーム画面には様々なアプリのアイコンが並び、テレビ放送のみならず、インターネットはもちろん動画サイトやオンディマンド配信サービスをはじめゲーム、SNSなど様々なコンテンツを提供するサービスにアクセスできる。ちょっと複雑な言い方になるが「テレビ画面というのは最早テレビ放送を通してテレビ番組を見るためだけのものじゃないんだな」と実感できる。
 アメリカだけじゃなくて、恐らく世界的にテレビ利用はそのような方向へ進んでいると思われるのだが、そのような潮流に逆行しているように見えるのが日本である。でも、日本でスマートTVの普及は、アメリカのNetflixやHuluのように魅了的な動画ストリーミング配信サービスがないので難しいかなとも思っていた。家に居ながらにして映画見放題でレンタルビデオ業をつぶしたと言われるNetflixに比類するサービスはないし、Huluを見ても、ネットワークのドラマやショーが豊富で見逃し視聴にも対応するアメリカ版に比べ、日本版はテレビ番組コンテンツのラインアップが圧倒的に弱い。映像コンテンツのネット配信は日米で(技術的な面ではなくコンテンツの充実度という意味で)もう何周も差がついてしまっているのである。
 そのような状況下で、映像コンテンツ産業の中心であるテレビ放送産業がスマートTVにどのように対応するのかは興味があった。実は、スマートTVはテレビ放送産業にとっても追い風になると思っていたからだ。うまく動画サイトやSNSと番組を連動させれば、スマートTVという同じ端末で両者を楽しむことができるし、結局はテレビ視聴が楽しくなるんじゃないかと思えたからだ。
 ところが、ちょっとこれは酷いと思えるニュースが入ってきた。7月7日の朝日新聞デジタルによれば、パナソニックの新型スマートテレビ「スマートビエラ」のCM放送を民放キー局が拒否した。テレビ起動時に、放送中の番組の右側と下に、放送とは関係ないサイトや、ネット動画にアクセスできる画面が表示されることを問題視してのことらしい。でも、スマートテレビのインターフェースってそういうものだと思うんだが…。関係業界で定めた技術ルールに違反するとか、そのことでユーザーが放送番組とネット情報を混同する恐れがあるとして表示方法の変更を求めているというが、テレビとネット間に情報メディアとしての補完性があることは明らかだし、日本のユーザーの多くは放送番組とネット情報をうまく使いわけるくらいの力は持っていると思われる。贔屓目に解釈しても取り越し苦労、実際には「テレビ画面をテレビ放送以外に使われたくない」というキー局側の本心の現れのようにも思えるのだが、もしそうだとしたら、こういった偏狭さはなんとかならないのだろうか。また、民放キー局が拒否したということは、各局で「これは放送中止にしよう」って談合でもしたのだろうか。こういう所にも横並び体質が現れているようだ。
 全ては業界の理屈だけで動いていて、視聴者は置き去り。遅々として進まない番組のネット配信も含めて、こう思えることは結構多い。個人的には業界のビジネス論理をある程度は理解してはいるつもりだが、世の中の多くの視聴者にとっては理解不能で、ただただ不便と思うだけだろう。さすがに民放各局も最近は公共性って言わなくなったと思ったが、上記の「放送番組とネット情報を混同されては困る」発言は、8年前にネット企業に買収されそうになった時に詭弁として公共性がしきりに持ち出されていたことを思い出した。「自分たちは特別」っていう意識はあまり変わってないようにも見受けられる。
 その一方で、パナソニックと言えば超大手広告主なわけで、民放側も並々ならぬ決意でCM拒否したんだろうとは思う。パナソニックの広報は「放送局側と協議して放送と通信の新たなルール作りを進めているところなので、現時点ではコメントを控えたい」と言っているが、一体どういう決着を迎えるんだろう。日本のスマートテレビの今後の道筋をつけるうえでも重要だと思われる。

16:57:07
 今回のWBC、日本の準決勝での敗退結果を受け、本日午前8時55分から決勝を生放送する予定だったテレビ朝日は同日深夜の録画での放送に切り替えた。ドミニカ対プエルトリコの決勝戦では高視聴率は望めず、それよりは確実に数字が取れるレギュラー番組に戻したということだろうか。世界大会の、しかも数日前まで日本が熱戦を繰り広げた大会の決勝の生放送を取りやめることに批判はあるだろうが、視聴率を考えれば局側の判断はやむを得ないかなという気もする。
 この件で、今から7年ほど前にESPN(世界最大規模のスポーツチャンネル)のアジアでの番組戦略を調査していて、日本・台湾・シンガポールでそれぞれ担当者に聞いた話を思い出した(ちなみに各国のESPNは基本的に独自に番組編成をしている)。ESPNというチャンネルの性質上、どの国でも自国外で行われるスポーツ試合が多く放送されているのだが、日本や台湾では自国の代表チームや自国選手が出ているか否かで、視聴者の関心度がまるで違うという。台湾では当時ニューヨーク・ヤンキースに在籍していた台湾人投手・王健民の活躍が大きな話題となっていたが、人々はメジャーリーグでもヤンキースの、しかも王が先発する試合だけを熱心に視聴するのであり、それ以外の試合に関心を寄せる人は少なかった。日本でのメジャーリーグ中継の視聴のされ方を重ね合わせれば納得できる話である。要するに、日本人や台湾人の多くは自国代表チームや自国選手の国際舞台での活躍を見たいのであるが、実はそのような嗜好は北東アジアの視聴者に特有なものではないかと、ESPNアジア(シンガポールを含む東南アジア一帯をカバーする)の幹部は僕に話した。
 実際、シンガポールでは、視聴者は単純に世界最高峰のレベルの試合を見たがる傾向があり、例えばシンガポール人選手が1人も在籍しないイギリスのプレミア・リーグの試合は、シンガポール代表チームの国際試合よりも視聴率が高いという。もちろんシンガポールの場合、日本や台湾とはアスリートの数が違うし、どうしても自国選手が国際舞台に登場する機会自体が多くないという事情はあると思うが、スポーツ視聴者の嗜好の相違は、大雑把ではあるものの、なかなか面白い指摘だと思った。今回、日本の放送局がWBC決勝戦生中継を見送ったことは、案外多くの国の人には不思議に思えるのかもしれない。
 さて、今回のWBCでは前回日本と決勝戦で戦った韓国が1次ラウンドで敗退した。これを受けてネットには韓国代表を、そして韓国を揶揄するようなコメントが溢れた。そのようなコメントは毎度のことなのだが、あらためて日本のスポーツファンが韓国のスポーツファンに似てきているんじゃないかと思った。
 1980年代末に僕が韓国に留学していた頃、同じ家に下宿していた韓国人学生たちは休みの日になるとテレビの前に集まり、熱心にスポーツ中継を見ていた。特に盛り上がるのは韓国代表や韓国人選手の国際試合、しかも相手が日本代表や日本人選手との試合だった。日本が優勢だったり勝ったりすると、日本の選手を罵り、逆に韓国が勝つと得意満面で「韓国に負けて悔しくないか」と聞いてくる。こちらが平然として、「試合に負けたのは残念だが、相手がどこの国かは関係ない」と言うと、釈然としない表情を浮かべる。韓国に日本が負けたことを悔しがることを期待しているのである。スポーツ試合に限らず、どんな分野であれ、日本に勝ちたいという空気が80年代末の韓国には満ちていた。一方、当時の日本はどうだったかと言うと、韓国を特別意識する人はあまりいなかったように思うし、多くの人にとってスポーツで韓国に負けることは試合に負けること以上の意味はなかった。日本と韓国では相手国に対する感情や関心にかなりの温度差があり、それは日韓のスポーツ試合観戦での態度にも如実に表れていた。
 ところが今日では、日本人にも韓国戦だけは冷静になれない人が増えているように感じるのである。実際、今回のWBCで韓国が早々と敗退した時、快哉を叫びながらも、興味が半減した人は少なくなかったのではないだろうか。彼らにとっては、決勝で日本が韓国を下して優勝するすことが最高の展開なわけだが、それが潰えてしまったのだから。かつてアンチ巨人が巨人なしではプロ野球で盛り上がれなかったのと同様、アンチ韓国も韓国なしではスポーツ国際大会で盛り上がれないのである。
 このように国際試合で韓国を特に意識するようになった背景にはいくつかの要因があると思う。例えば、競技にもよるが、野球のように日韓のレベルが拮抗してきたことは一因としてあるだろう。また、昨今の領土問題や歴史認識の相違に端を発する嫌韓感情の高まりも関連していると思われる。スポーツの国際試合はナショナリズムを引き起こしやすいものだし、それゆえ、国威高揚のために利用されることもある。ただし、行き過ぎたナショナリズムの裏返しとして、相手国に対する嫌悪感と結びついてしまうのは、健全とは思えないが、現実に日韓では起きやすい。
 こういった傾向に拍車をかけているのがマスメディアだろう。ここ10年くらいの間に顕著になったのだが、日韓戦の話題になると判で押したように「宿命のライバル」「因縁のライバル」といった枕詞で人々の関心を喚起しようとする。ライバルがいた方がスポーツは盛り上がるということだろうが、こういった紋切り型の報道にうんざりして反感を覚える人は少なくないと思う。しかしその一方で、少なからず日本人の間に「国際試合の中でも日韓戦は特別」という意識を植え付けたことも事実だろう。先日、キム・ヨナが韓国メディアに向かって浅田真央との比較をやめるよう話したそうだが(「キム・ヨナ、真央との比較いい加減やめて…韓国メディアに注文」)、伝統的に韓国メディアは言うに及ばず、今日では日本のメディアも日韓対決だと興奮しすぎなのである。

16:27:25
 テレビ批判が世に広まり、「テレビ離れ」などという言葉も定着した感があるが、先日、大阪の某テレビ局でちょっとお話しさせて頂き、その後にテレビビジネスに関して意見交換する場に恵まれた。テレビ放送産業の実情に関する興味深い話が多かったが、その中のいくつか記しておく。
 商業放送を行う局からすれば、全体的な視聴率の低下や視聴時間の減少がひいては広告収入の低下につながることに危惧を抱くのは当然だろう。確かにテレビ広告費を中期スパンで見ると、2012年は5年前と比べて12%ほど落ち込んではいるのだが、それでも、世で「テレビ離れ」が喧伝されるほどには広告収入が激減しているというわけでもないような印象を受ける。2012年のテレビ広告費は東日本大震災の反動増があるにせよ前年比103%で、スポット広告費は3年連続で増加している。
 実際、広告主である企業や団体などは、まだまだ広告媒体としてのテレビを高く評価しているとも言われる。考えてみれば、日本全国数百万~数千万の世帯に向けて同時に映像と音声で印象的なメッセージを届けることができ(だからこそ、テレビ局も広告主もリアルタイム視聴にこだわるわけだが)、しかも消費者1人当たりへ届くコストは比較的廉価であるという、広告媒体としてのテレビの力はその他のメディアでは代替できないものである。例えば雑誌広告は特定の属性を持つ消費者にリーチしやすいことが強みだが、これはネット広告と競合する。一方、少なくとも現状ではテレビ広告はこのような代替媒体が不在なのである。その意味では、視聴者にとってというよりは、広告主にとってのテレビの力は健在と考えられるし、広告費をメディアごとに配分する際に依然としてテレビを重要視する企業は多そうだ。
 今日のテレビが陥っているとされる「負のスパイラル」(広告収入↓⇒制作費↓⇒番組の質↓⇒視聴率↓⇒広告収入↓…)はモデルとしてはやや単純化されすぎていて、視聴時間減少と広告出稿量の相関に関してはもう少し慎重に考察する必要があるように思う。テレビ広告の出稿量は視聴率以外の要素、例えば景気などに左右される部分も大きい。広く口々に上がることが多い視聴率や番組の質とは異なり、広告媒体としてのテレビの力は多くの場合、テレビ局や広告代理店、広告主の関心事に過ぎず、視聴者には直接は関係ない部分なので、テレビが論じられる際に焦点になることは多くないが、実は現行の商業放送ビジネスを考える上で非常に重要な点である。
 しかし、テレビが独特な広告媒体としての力を持っているといっても、HUT(全世帯のうちテレビ放送を視聴している世帯の割合)の低下傾向には局も神経質にならざるをえない。HUTの推移を見ると、多少の上下はあるものの全体的に下降の一途を辿っているのがわかる。この点に関してテレビ局が危惧するのは、テレビなしで生活できる人が増加することである。「番組がつまらない」と言われるならば、まだ内容を変えることで対処し、視聴者を呼び戻すこともできるかもしれないが、「テレビを見ない」と言われるとさすがに対応に窮する。テレビに限らずメディア利用は日常生活との関わりが深いものであり、習慣性が高い。子供の頃に家にテレビがないとか、親がほとんど見ないなどの理由で、テレビ視聴が日常化していないと、その後の人生において「まあ、テレビはなくてもいいか」になりそうだ。ラジオはそのような状況に陥っているように見受けられる。実際に聴けばなかなか面白い番組は多いのだが、今やラジオがない家庭は少なくないだろうし、情報収集あるいは娯楽のための選択肢からラジオが抜けている人は多い。
 テレビ局にとって重要なのは、今日増えていると言われるテレビに興味がない若年層にテレビの面白さをどう認知させるかという点だろう。家庭でテレビを見ないならば、繁華街のマルチスクリーンや電車内のモニターなどを使って、家庭外でテレビ放送とのコンタクトポイントを作るしかない。このように考えると、街頭テレビが想起される。60年前のテレビ放送開始時、人々が集まる場所に設置された街頭テレビは、テレビという未知のメディアに対する人々の関心を高めるのに大きな役割を果たしたが、それと同じようにテレビを体験できる場を提供することが今後、必要になるのかもしれない。あと、無償でテレビ受信機を貸出すというのも大学生あたりには有効か。
 あと、以前のエントリー「今日的大学生のテレビの見方」でもちょっと書いたテレビ番組とtwitterとの連動だが、商業的価値が今一つよくわからない。もちろん視聴者にとって「他の人の感想が知れたり、自分の感想を伝えたりできる」のが楽しく、「他の人と見ているような気がして楽しい」のはわかるのだが、そのことがテレビ局や広告主にとってどういった利得があり、収益につながるのかがよくわからない。番組に対する視聴者の反応を知るということだとしたら、これまでも番組宛に送られてきていた手紙とかFAXとか掲示板への書き込みと大差ない(実際には、番組に寄せられたtweetの扱いも、以前に主流だったFAX紹介と似ている)。まあ、tweet数の増減などはデータ化しやすいのだろうけど、視聴率データがサンプルに問題があると言われながらも一応は客観的指標としてビジネスに用いられているのに比べ、利用者の属性が偏り、しかも利用者によってつぶやく頻度に差があるtwitterから得られるデータって、テレビビジネスにおいてそんなに価値が高いものなのだろうか。
 1つ考えられるのは、twitterは伝播力がありそうだから、話題喚起してテレビ視聴に誘導する要因になりうる点である。ただ、そういったプロモーション・ツールとしての役割は理解できるが、深夜番組あたりだと地方では時差放送が多いことがネックになる。実例を挙げると、恐らく今日最もtweetが多そうな『アメトーーク!』は関西地区では1時間15分遅れのOAである。その間、twitterでネタバレするし、でも見たいと思ってもやってないしという欲求不満が生じる。もし別日のOAならばtwitterの効用はより小さいものになる。うまくtwitterを取り込むことがテレビの今日的課題の1つのように言われるが、なかなか課題は多そうだ。そうこうしてるうちにtwitterも今ほど使われなくなったりして…。




23:29:24
 NHKのテレビ放送開始60周年を記念して2月1日に放送された『1000人が考える テレビ ミライ』。テレビ制作者らが1000人の視聴者と一緒にテレビの未来を討論するという趣旨の番組である。面白そうだったので、放送当日は出張中にもかかわらず、夜10時前にはホテルに戻り、リアルタイム視聴したが、なにか違和感が残った。そこで、自宅でHDに録画していたものを今日もう一度じっくり見てみたが、やはり違和感は払拭できなかった。
 民放では恐らく実現が難しそうな、こういった番組をNHKが放送することは大きな意義がある。しかしながら、スタジオにいる出演者の「こんな番組をやるなんてすごい。NHK大丈夫?」といったコメントを放送するのは鼻白む。NHKは2009年3月21日にも『どうなってしまう テレビのこれから』という、今回と似たような内容の番組を放送している。理解できないのは、その時に指摘・議論されたテレビの問題点、例えば視聴率とかネットとの関係とか番組の質とかがその後の数年でどう変容したのか、今回の放送で全く検証されなかった点である。前回同様、コメンテーターの中心も糸井重里さんなんだけどな…。数年に一度、定期的に「テレビを考えます」的な番組を作り、問題点をちょっと議論して「はい、終わり」だとすれば、今回の番組が掲げる「未来のテレビを切り開くための提言」も流しっぱなしになるのではと危惧してしまう。
 番組では1000人の視聴者がテレビ制作者たちの議論に意見を寄せ、投票に参加するというスタイルを取っているのだが、この1000人はどういう人たちなのか、「全国各地の20代から60代までのネットユーザー」という以外に説明はなく、どのように選ばれたのかも不明である。また、番組は事前録画されており、生放送ではないのだが、1000人のネットユーザーにはスタジオでのやり取りはどのように伝わっていたのだろうか。
 そもそも、この番組は主にどういう人たちに向けて作られた番組なのだろうか。①「テレビを好きな人orよく見ている人」は問題意識があまりないだろうから違うはず。②「テレビを好きじゃない人orほとんど見ていない人」も、金曜夜10時にこの手の番組を見るとは考えにくいので違うだろう。だとすると、③「テレビは嫌いじゃないけど、最近のテレビは…」みたいな、いわば「テレビで迷っている人」だろうか。でも、本当のところでは、最も見てほしいのは②じゃないだろうか。ここには若者層が多く含まれるだろうし、テレビの未来を語る以上、若い人にテレビに興味を持ってほしいと思うのは当然だ。
 ただし、もしそうだとしたら、番組の感じがあまり若い視聴者向けではなかったように感じた(個人視聴率がわからないので、結果的に番組をどういう層の人たちが見たのかわからないけど)。どういう点が若い視聴者向けではないように感じたかというと、全体的に予定調和な作りのように思えたからである。今日よく喧伝される「テレビ離れ」から始まり、最後は「でもやっぱテレビっていいよね」に流れるような構成がしっかり決まっていて、それに沿って作られているようだった。
 番組ではまず1000人のネットユーザーに「今のテレビに魅力を感じるか」を聞いたところ、感じない人が68%に上った。また、テレビ視聴時間が減った人が45%になったことを受け、見なくなった理由を尋ねたところ、「面白くない(51%)」、「見たい番組が減った(53%)」といった声が多かったことを紹介した。さらに「ないと困るもの」としてテレビ(22%)がパソコン(49%)や携帯電話・スマホ(24%)を下回ったことを紹介した。
 いずれも特に意外でもない結果だが、番組ではこれらの結果を受けて「テレビが面白くない」、そして「テレビがなくても困らない」を2つのテーマとして絞ることにした。確かにテレビが置かれている厳しい現状から番組を始めてはいるのだが、その割に緊張感がなく、明るいスタジオのせいもあるのだろうか、実際に「楽しく考えようよ」といったコメントも聞かれる。スタジオ参加の一般視聴者25人も、コメンテーターの意見に大層にうなずくリアクションが多く、真剣に議論を交わすような空気が醸成されない。番組制作者のテレビの将来に対する危機感があまり伝わってこない。
 「テレビが面白くない」という点に関しては、日本テレビ『電波少年』のプロデューサーだった土屋さんが「作り手の熱が足りない」と指摘しつつも、「今の制作者も熱は持っている」と言うので、よくわからなくなった。「既存のモノを乗り越えようとしないと面白いものは出てこない」は正論だが、バラエティ番組の企画はやや出尽くした感は否めない。新しいものを生むより、視聴者の飽きの方がはるかに早く進行しているのが現実だろう。
 続いて話題はドラマへ移る。ドラマは録画してしっかり見たいコンテンツの代表であるため、リアルタイム視聴重視という民放ビジネスモデルや、視聴率と作品の質といった、定番の議論がなされる(これは先述の4年前の番組でもかなり時間が割かれた部分である)。ただ、テレビ東京のドラマ・プロデューサーである山鹿さんが「視聴率よりも作ったものを見てほしい」と言ったのには感心した。作り手としては当然のマインドだと思うが、明言するテレビマンは少ない。
 番組では、制作者の主張後に「これからのテレビが面白くなると思うか」を尋ねたが、「ならない」は76%に達し、テレビ番組に対する期待はやはり低いのかなと思った。ところが、その矢先に糸井重里さんの「一緒になって良い方向へ向かおうという意思がスタジオにできてきた」というコメント。なぜそういう解釈になるのかよくわからないが、これを聞いた時、番組をどういうふうにまとめようとしているのか直感した。
 この後、ニュースや情報番組におけるネタの選定に関する話題があり、最後の質問が「テレビに未来はあると思うか」。すると「思う」が66%、「思わない」が34%で、スタジオでは拍手が巻き起こる。この逆転サヨナラHRみたいなのは一体何だ?それで、糸井さんの締めのコメントは「テレビ視聴は時代を共有できる故郷のようなもので絶対必要。テレビの方に向かってきていると思いたい」。前半部のような感覚は明らかに失われつつあると思うけど、このような「~すべき」といった情緒に訴えるようなメッセージしかないのだろうか?一方、番組が命題として掲げた「テレビがどう変われば人々の期待に応えるものになるか」という肝心な部分は僕には不得要領だった。

プロフィール

大場吾郎

Author:大場吾郎
大学教員であり、メディア研究者。専門は映像メディア産業論やコンテンツビジネス。元々は某キー局勤務。
Twitter:@obagoro

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